2011年11月27日日曜日

あの悲劇を繰り返さないために

3.11の東日本大震災からすでに8ヶ月が経ちますが、忘れかけたその悲劇の教訓を、私たちは後世に伝えていかなければなりません。中でも宮城県石巻市立大川小学校の津波被害は、衝撃的な事実と共に多くの教訓を残しています。モダンで開放的な美しい外観をもったその校舎は、子どもたちがのびのびと日々を過ごしていたに違いありません。そんな平穏な日常に、突然に想定を超える津波が襲い、考えられない事態と状況が積み重なり悲劇を生みました。

いくつもの川が合流する江別市は、幾度となく水害を繰り返してきました。あらゆる災害を想定して、出来うる限り安全な場所に、なおかつ地域住民までもが避難場所として使用できる、安全な学校を建てていただきたいと思います。

このような映像に嫌悪を感じる方、また、マスコミの報道のあり方に疑問を感じる方、様々いらっしゃるかも知れませんが、この悲劇を事実としてとらえ、子供たちが笑顔で学校生活が送れるよう、私たちが出来ることから一歩踏み出しませんか。

2011年11月24日木曜日

「地域コミュニティとの協働による学校防災機能の強化」文部科学省

東日本大震災以降、学校の防災機能の強化が叫ばれていますが、学校と地域コミュニティとの連携による相互の防災能力向上への取り組みを支援するため、文部科学省に設置され、報道発表がありました。日頃から地域コミュニティと学校とが密な関わりを持つことで、いざという時に多くの人命を救うことが最認識されています。ハードばかりに目がいきがちな災害対策ですが、こうした地域との関わりを深めることは、児童生徒の教育という側面でも多くの効果をもたらすものと思われます。

文部科学省 : 「地域コミュニティとの協働による学校防災機能の強化」に関する取組の推進及びタスクフォースの設置について

文部科学省 : 地域コミュニティとの協働による「学校防災機能」の強化【概要図】

文部科学省 : 地域コミュニティとの協働による「学校防災機能」の強化【支援メニュー】

2011年11月17日木曜日

第4回統合委員会の開催が決まりました

平成23年11月29日(火)午後7時より、江別市コミュニティセンター 研修室2・3号において、第4回 江別小学校・江別第三小学校統合委員会が開催されることとなりました。議題は以下の通りです。

(1)統合校の設置場所について
(2)その他

第3回までの統合委員会で、統合校の設置場所を議論するだけの資料はほぼ出揃っていますので、具体的かつ現実的な場所を決めていく段階に入ります。なお、今回の統合委員会も一般の方の傍聴が可能となっております。今回は核心に迫る議論がなされると思いますので、関心のある方は江別市ホームページ上の「江別市審議会等公開案内」で告知されますので参照の上、足を運んでみてはいかがでしょうか。

江別市 : 江別市審議会等公開案内

2011年11月16日水曜日

facebookページを開設しました

スマートフォンなどのモバイル端末の普及で、コミュニティのあり方がめまぐるしく変化しております。そんな流れに対応するため、従来までご利用いただいておりましたTwitterの他に、facebookページを新たに開設しました。Twitterとfacebookはともに連携しておりますので、共々よろしくお願いいたします。

facebook : http://www.facebook.com/pages/江別小学校を守る会/248053491920206?ref=tn_tinyman
Twitter : http://twitter.com/#!/ehagigaoka

2011年11月13日日曜日

函館市立弥生小学校

函館山山麓に、現在改築工事が行われている小学校があります。函館市立弥生小学校。1882年(明治15年)開校、かつて石川啄木も教鞭をとった北海道でも有数の歴史ある小学校です。周辺地区の過疎化や少子化で児童数が減少し、隣接校と統合し校舎を改築するというお決まりのながれです。

取り壊された旧校舎は、1934年(昭和9年)におこった函館大火の復興の象徴として、1938年(昭和13年)に完成した鉄筋コンクリート造、地上3階、地下1階の大変モダンな外観を持った建物で、函館市の「景観形成指定建造物」にも指定され、長らく函館市民に親しまれてきました。

建築中の新校舎は、旧校舎を極力復元する方向で行われていますが、当然、旧校舎の解体には反対運動が起こりました。耐震診断やコンクリート強度の調査結果の信憑性をふくめた改築の結論に至る経緯が不透明、かつオープンな説明や議論が不十分であることなど、市民が納得出来るだけの情報が示されないまま工事が進められてきたようです。「函館・弥生小学校の保存を考える」に詳しく経緯や状況が記されています。下記リンクから御覧ください。

函館・弥生小学校の保存を考える : http://yayoizaka.exblog.jp/

2011年11月6日日曜日

消えた街

1977年 国土情報ウェブマッピングシステムより
道北の下川町にはかつて鉱山が存在しました。下川町の中心部から道道354号を12kmほど南下した山奥にありました。そこにはバス路線が整備され、さらに学校、診療所、郵便局、駐在所が存在し、ひとつの街が形成されていました。

2006年 Google earthより
下川鉱山は1941年(昭和16年)、三菱鉱業株式会社によって操業を開始し、軍需によって主に銅、硫化鉄、亜鉛を生産していました。1974年(昭和49年)には月産33,000t、従業員580人、人口1,900人でピークを迎えますが、その後輸入品の低価格化により、急速に減産、そしてついには1983年(昭和58年)に休山し、現在では施設管理に数名が勤務するのみで、事実上の閉山となってしまいました。

航空写真を見てわかるように、現在ではほとんどの建物は取り壊され、一部の鉱山施設と、下川町立菱光小学校跡が残るのみとなっています。この菱光小学校は1945年(昭和20年)菱光国民学校として開校し、1983年(昭和58年)の下川鉱山休山とともに休校、1991年(平成3年)正式に廃校となりました。

現存する校舎は、改築後わずか2年しか使用されず休校となってしまいました。休校後しばらくは合宿所などに活用されていましたが、後に町の文化財保管施設として使用されてきました。一時期は、展示を期間限定で開放していましたが、老朽化と管理上の問題から、現在では利用されなくなっているようです。

かつて最盛期には3,000人近い人が、ここで暮らしていたであろうことは、現在の鬱蒼と茂った森に走る一本の舗装道路や、この小学校跡など、僅かな痕跡しか残っておらず、想像すら難しいい状況となっています。この街で暮らしていた人たちは、現在では全国各地に点在していると聞きます。この現状を目の当たりにするとどのように思われるのでしょうか。確実の言えることは、この先、わずかに残る痕跡も、人々の記憶からも、一つの時代を築いた街が消えて行くことは間違いありません。

下川町 : http://www.town.shimokawa.hokkaido.jp/Cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=AM04000
下川鉱山Wikipedia : http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E5%B7%9D%E9%89%B1%E5%B1%B1